ひな百合手記

関係性と悲鳴と考察

新劇スタァライト、大場の刀についての考察

この記事はネタバレを含みます。

 

 

 

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恐喝および暴行、自殺ほう助の疑いで逮捕された被疑者のNさん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

開始地点

 大場の本差(輪)が遅れてやってくるやつ、以前にみた『水に沈んだ写真がB組面子が多かったことから心が裏方に傾いていたが、それを元に戻したからでは?』という考察が天才的だったのですが、さっき急に「もしかして逆なのでは?」と思いました。

追記訂正

 B組の写真は冒頭、雨宮詩音が激ヤバスランプしてる時のシーンでした。

 でも特に問題なく説明できそうなので続行します。

 

 まずあの写真のシーン、中央にあるのは星見との思い出なのですよね。大場が今まさに引導を渡さんとする星見の、眩し”かった”ころの写真。これと一緒ということは、あの水の中の写真はすべて捨てる執着(思い出)なのではと、思ったんですよね。

 というのも。

 狩りのレヴューの大場は星見への庇護支配欲を捨てて「もう見て見ぬふりをしながら守ったりせず、ちゃんとここで死なせてあげるね」という意味での『ケリをつける』なのは間違いないと思うのですね、まず。
 そうなるとあの「夕暮れの写真」は大場が捨て去ると決意した執着である過去、今はもう得られない憧憬の象徴のはず。だから騎乗位写真撮影で放り捨てられていたり、水に沈んでいたり、雑に扱われていたのではないでしょうか。
 となると。

 それと一緒に沈んでいた写真にB組とのものが多かったという情報を真とするならば、その意味は『役者も裏方もという双方への未練を捨てて、役者に覚悟を決める』なのではないでしょうか。

 もう捨てなきゃいけない執着、未練だから、水の中に捨てられていた。

 

追記

 そしてこれは『写真』であるB組、つまりは『舞台創造科としての道』にも繋がります。

 根拠としては、レヴュースタァライトでは3話の紙飛行機という前例があるためです。あれは真矢クロの比喩モチーフだったらしいのですが、舞台挨拶曰く「モチーフは統一しておきたかった」と監督はモヤっていたらしく。今回の映画でも「モチーフとテーマの一貫性」には気をつけていたらしいのです。

 このことから私は『大場ななの撮った写真』はすべて同じ要素を担っていると考えています。すなわち星見純那の写真と、B組の写真。その2つは等しく大場ぶとって『捨て去るべきモノ』であるということです。

 ついでに言えば大場のカメラが『携帯→チェキ』と変化しているのもその関係ではないかと思っています。携帯の写真は『いつでも持っていられるモノ』ですが、チェキの写真は『何もしなければ放置されていくモノ』だからです。実際、あの写真たちは地面へと放られていましたし、その構図のためにわざわざチェキを持たせたのかも?

追記終わり

 

 

 ここで話を太刀に戻します。
 大場が二刀流なのは役者と裏方、双方の才能が高いからというのは半ば公式みたいになってる共通考察です。でも皆殺しのレヴューで片手だったのは、直前までその状態を放棄して第101回聖翔祭、つまりは役者としての自分に専念していたからなのではないでしょうか?
 では、なぜ皆殺しのレヴューで二刀流に戻るのか。それは野菜キリンショックシーンで「私も戻らなきゃ。自分の役に…」がヒントだと思っています。あそこで言う””とは、その後に自らの課題に向き合うことを考えると自分自身のことであるのでしょう。

 そうなると逆説的に、皆殺しのレヴュー(二刀流=役者にして暗躍者)の大場は「大場ななが取りたい本筋の振る舞いではなかった」と言えるのではないでしょうか?

 再演時のように裏でキリンと通じ、舞台を整え、暗躍する裏方としての異常な才。それが大場ななが手放していたものであり、あの”皆殺し”で一度拾いなおした執着。だから最初から手元に用意できなかったし、その後の”狩り”ではまた捨て去ろうとする。

 星見純那という、自分が捨て去るべき執着に押し付ける形で。

 

 しかしここでひとつ矛盾が生じます。

 聡明な皆さんならお気づきでしょう。それは「あれ? 戻って来たのは本差(輪)だけど、押し付けたのは脇差(舞)じゃない?」という点です。

(筆者はいま書いてて気がつきました)

 

 これは考察からさらに落ちる推測ですが、大場の本差が元は舞台創造科スキルで、その理由は『他人を蹴落とさず活かす才能』だからなのかもしれないです。つまり、再演前からの大場にとって自由に振り回せる力ということですね。庇護欲に直結していて、だからより大きな武器として顕現していた。

 けれど新劇WSBの大場は「他人へ引導を渡すこと」の覚悟を決めたのかもしれません。これにより「庇護欲(創造科)スキル」と「暴虐(役者)スキル」の(精神的なやる気の)リソース配分を入れ替えた、つまりは再演という庇護支配を捨て、「役者」として修羅に落ちることを覚悟した結果なのかも。

 

 

 

まとめ(忙しい人向け)

大場なな、第101回聖翔祭に専念(役者特化に偏っていく)

再演記録を閲覧(ロロロ)していたところ、みんなの死を観測

神楽を呼び出し愛城との別離を促す(ロロロラスト、新劇OP)

進路相談。第一志望は俳優科だが、まだ覚悟が決まらない。

皆殺しのレヴューの準備を進める暗躍(創造科スキル)パート

「……しゃべりすぎだよね、みんな」

覚悟完了、皆殺し決行。支配者(B組)スキルも必要なので拾いなおす

本差(輪)の帰還。

WSB開幕。役者としての冷酷を貫く覚悟を決め本差と脇差が入れ替わる

狩りのレヴュー。

もう要らない「創造科」の象徴になった脇差を、同じく見捨てると決めた星見に押し付けて同時に決別をしようとする。

見捨てた星見にまさかの敗北。

「捨てなければいけない」という決めつけを捨て、星見純那とは無関係な他者(進路に口を出さない)になり、自分もどちらも抱えて行くルートを歩み始める。

写真が浮上。

B組スキルを捨てることをやめた表れ。

大場、両方を学べる英国王立演劇学院へ留学。

経済的な観点や利便性から、神楽ひかりとルームシェアを開始(これは幻覚です)

 

もしかしたら、EDで大場が持っていた本は『アルバム』なのかもしれませんね。

レヴュースタァライトがあの物語そのものなら、その記憶が『』になってもおかしくはありませんから。

「でも新しい事は何もないから、閉じてしまってもいいか」

 

以上です。

ご清読ありがとうございました。

 

 

 

おまけ

 大場ななの皆殺しレヴュー中に本差だけ遅れてくる理由、私の理由とは別に「愛城華恋を送り出した大場Aと、みんなを皆殺す大場Bに分裂していたから」という考察もあり天才か? と思いました。

 私の考察と合わせるなら、「愛城華恋を送り出すには『裏方』としての空間掌握能力とフォロー能力が必要→B組能力の本差だけ分離」とかもありかもしれないですね……

 でもレヴュー空間とはいえ2人に分裂できる大場なな、ほんとに人間? なんかひとりだけ素でスペックが桁違いだし、別格すぎる。

 もしかしてあれですかね。大場ななはヒトではなくの分け御霊、もしくはそれがヒトとして転生した存在で、分裂可能がデフォである神霊とかだったりします???

 

 

 ……ところで。

 スタァライトにおける『』とも言うべき観測者って『』であり『』ですよね。それは同時に『塔の導き手』とも。

 赤い二つ星。

 罪を裁く星。

 地下も、愛城華恋と神楽ひかりの運命も、そのもっと前の戯曲スタァライトそのものも、ずっとずっと見続けていた、

 まさか……ねぇ?